20241004. 17-2 研究者から経営者に・・・突然の取締役就任(余談)

 研究部では研究室単位での研究組織になっており、一つの研究部に3~4個の研究室が所属していた。私は2008年(52歳)1月の組織改定時には研究室長から研究部長に昇格し、有機系の複数の研究室を受け持つ立場になった。環境材料研究部という名称であった。さっそく部としての研究方針を立てて運営することになり忙しくしていた。数ヶ月が過ぎ5月のゴールデンウィークが終わり出社すると秘書室から呼び出しがあり所長室に来いと言う。何かまずいことでもあったかと思いすぐに行くと今年の6月末の株主総会であなたを取締役に推薦するとのこと。びっくりして聞き返すと、とにかくすぐに豊田章一郎名誉会長との面接があるから覚悟するようにとの事であった。まだ部長になったばかりで先輩には多くの方が居るのになぜと言う気持ちと大変なことになったという緊張感で押しつぶされそうになった。

いざ名誉会長との面接に行くと「君はトヨタのために今までどのような貢献をしたのか?」というとてもシンプルな問いがあった。ナイロンクレイナノコンポジットを開発しトヨタ車に使用していること、ゴムリサイクル技術を開発したこと、バイオプラスチックを開発したことなどお話しすると頷かれたが、一言「どうして自分で会社を作ってやらないの?」と。これには周りにいた所長や副所長たちが驚いて、「初期の設備投資が大きいものですから外部の会社にお願いしています」と答えるのが精一杯。やはり大物は器が大きくて、新たな投資先を探しているのだなという事を実感した瞬間であった。しかし面接はうまく乗り越えたようで取締役に推薦していただくことになった。

 2008年7月からは役員室と言う自宅より広い個室が与えられ、公用車と秘書の方がついてスケジュール管理などしていただくことになり朝からびっしりと会議や出張などが入れられた。また材料分野の分野長になり有機だけではなく、無機(触媒、セラミックス)、金属、電池、バイオ、分析・計測の6個の研究部を担当しその人数は約250人であった。自分の研究どころではなく、トップからは学会活動などやっている時間は無いと言われてた。ただし6人の部長さんができる方ばかりで日常業務はほとんど任せられることが救いであった。

 最初の大きな仕事は分析装置に関するものでSPring8(放射光施設)の中にトヨタ独自の専用ビームラインを作ることであった。約10億円の設備投資が必要という事で資本金の1/3に当たる資金を投入するわけである。さすがに大きな話なので豊田名誉会長に直談判し承認をいただくことになった。設備の青写真を持参し説明したところ細かい質問(例えばネジの材質が無酸素銅である意味とかその本数の妥当性など)が多く出て、同席した研究員が「あなたのような素人に説明できない」と言ってしまった。皆さん顔面蒼白だったが、名誉会長は「分かったが貴様は何者だ、名を名乗れ!」と言われその場は終わってしまった。後日承認されたと連絡を受けホッとした。これには後日談があって完成した直後の豊田ビームラインを豊田名誉会長に視察していただいた時に「広瀬は居るか?」と言われ、駐在していた担当員とお昼を一緒に食べて歓談したそうである。その広瀬さんこそ当時激怒させた張本人であり、設計から運用、管理にわたり現地に単身赴任して立ち上げた方である。

この時は人の温情を感じた。豊田ビームラインについては日本放射光学会にて2009年に「自動車産業における放射光利用」というタイトルで私が会社を代表して説明をしている1)。今から振り返ると2008年9月に米国のリーマン・ブラザーズが破産したリーマンショックの時代によくやったなと実感している。これも余談であるが豊田ビームラインと漢字の豊田(トヨタではなく!)にしたのは先輩たちの拘りである。

 部内の業務進捗会議、所の運営会議、研究推進会議、経営会議、取締役会等々会議がやたら多くて研究どころではないし、本当に学会活動も危うくなってきた。学会活動は個人個人が盛り上げていくものだとの持論があり、何とか厳選して日本化学会、高分子学会、自動車技術会は継続して活動することを認めていただいた。特に高分子学会に関しては2014年には高原淳九州大学教授が会長になられた際に副会長にしていただき2年間活動した。その勢いで2016年には自ら会長に立候補した。会社の方も認めてくれ社内に支援者や選挙対策委員を用意してくれた。結果は落選してしまったが後で考えると過去に企業研究者が会長になったことは無く結構無謀なことをしたもんだと反省した。しかし会長になられた中條善樹京都大学教授からはぜひ副会長になってほしいと要請され、さらに2年間の副会長職を行った。

1)放射光 March 2009 Vol.22 No.2 p.92より
2009年1月11日(日)第22回日本放射光学会 放射光科学合同シンポジウム 企画2「産業基盤技術としての放射光利用」 座長:渡辺義夫(JASRI)
趣旨:本企画2「産業基盤技術としての放射光利用」は、1月11日(日)午後3時から小柴ホールに於いて、休憩をはさみ3時間にわたって行われた。本企画講演は,民間研究者の会員数が少ない日本放射光学会において、学際的な内容でない企画に120名余の聴衆が集まる大変盛況な企画講演会となった。

本企画は、予稿集の趣旨説明にある通り、第3期科学技術基本計画の「社会・国民に支持され、成果を還元する科学技術」の中で科学技術の成果をイノベーションを通じて社会に還する努力を強化することが謳われており、放射光利用技術に於いても産官学連携の推進とそれに基づいた産業利用の推進並びに成果の社会への還元が期待されていること、また、近年では放射光利用技術は産業基盤技術に不可欠な先端分析ツールであるとの認識から産業界の利用も年々増加してきていることの2つの背景の下に実施された。また、民間企業の放射光利用に焦点を当て、企業幹部である研究開発部門あるいは事業化部門の責任者クラスの方々が放射光を如何に戦略的に利用しているか、あるいは放射光施設側が、それに対応すべく如何に利用技術,利用支援、さらには利用制度を実施しているかをそれぞれの立場で披露してもらうことで、今後の放射光利用技術のさらなる発展を促し、ひいては我が国の経済の活性化と産業振興及び科学技術の進展に寄与する事を本企画の目的とした。(中略)

(株)豊田中央研究所の臼杵有光氏は「自動車産業における放射光利用」と題して講演した。排ガス浄化触媒の開発に当たり、放射光利用が大きく貢献したことを強調した。特に、(株)豊田中央研究所では、現在の放射光利用が2000年当時に比べて約2倍の利用時間であることを示した。また、現在 SPring-8で建設が進んでいる豊田ビームラインの状況と今後の計画も言及し、触媒研究だけでなく、自動車の体積率で約50%を占める高分子材料の開発にも不可欠なツールであることを示した。

Author: xs498889

2 thoughts on “20241004. 17-2 研究者から経営者に・・・突然の取締役就任(余談)

  1. いつも丁寧な返信ありがとうございます。

    とても参考になり西先生の経験された一端を知る機会になり有難く拝読しております。

    役員になって研究から少し遠のきましたが若い研究者が多く在籍していたので彼らと関係を保ちつつ研究は続けることができました。

    この機会に役員としての仕事もまとめておきました。

    研究ではないので17-3報(余談)としました。

    次回からはまた論文のお話に戻るつもりです。

  2. メールありがとうございます。皆さんの参考になれば幸いです。先生の話も貴重です。
    今回も役員としてのご苦労が分かります。特に、研究者ポスターセッション、有光賞など工夫され風通しを良くされたのは
    素晴らしいですね。ブリヂストンにいた頃は、そう言う工夫をする役員はいなかったようです。まあ、役員主催のゴルフコンペなど
    やっていたようですが、仲間に聞くと「勝ってはいけないプレーをする。」とのことで、私は参加しませんでした。
    ベル研では、国内外の著名な研究者の最先端テーマのセミナーが大体週に1回ぐらいあって質疑が活発でとても刺激になりました。中には、
    「地球外生命体との通信可能性」、「ユーリー・ゲラーの超能力」、「能の活動制御可能性」、「将来の資源予測」などまでありました。
    脱皮ニューイヤーは傑作ですね。それに近いのですが、ベル研の同僚から当時アメリカ進出中だった日産(ダットサン)について何故ダットサンというかと訊かれ
    知らないと答えると、彼は、「日産が急いでアメリカに進出するのでアメリカ用の愛称を考える事になった。日産の役員会で「何時までに考えるのか?」とある役員が訊いたところ、
    「明日までだ!」と社長が言った。「そんなに早く(That’s soon!!)」と呆れたが、英語の発音(ザットスーン)を文字って「ダットサン」に決まった。」といわれビックリしました。
    アメリカ人から見ると日産の進出は急激で意思決定も猛スピードにみえたのでこのようなジョークが出来たのでしょう。更に、同僚が言うには、「ベル研が新しい技術を発表すると、
    直ちにソ連は、そのような技術はずっと昔に発見していたと嘘のデータを出し、日本は、その技術を使って新製品を発表するのでやってられない。」と言っていました。
    当時のアメリカの日本に対する警戒は、現在は、中国に当てはまりそうです。
    西 敏夫

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