20241006 17-3 役員の仕事(余談)

 2008年に経営陣の中に入れていただき今までにない仕事をこなす必要がでてきた。思いつくままに(研究ではない)仕事を振り返ってみた。研究所と言っても株式会社なので株主との連携は必須である。トヨタ自動車はじめトヨタグループの会社(株主)との会議体への出席は飛躍的に増大した。ちょうど役員になったころから連携を重視する風潮になり、各社との会議が増えてきた。
・株主総会(年1回)、取締役会(年4回)、経営会議(社内のみ、月1回)
・トップ懇談会・・年末に各社の社長、副社長、役員との意見交換会があり成果の評価と来年に向けての要望などが出される。
・各技術分野での各社の担当部署との検討会・・私が主催したのは材料検討会、電池検討会、バイオ検討会であるが関連するものとしてエレクトロニクス検討会、エンジン検討会なども参加した。材料検討会の下の会議として有機材料部会など材料別でそれぞれ開催された。
・ジュニア豊田会・・各社の若手役員の懇親の場でありどちらかと言うと息抜きの場。中部国際空港(セントレア)の見学会、海陽学園(トヨタなどが作った中高一貫の学校)の見学会、トヨタ産業技術記念館の見学会、湖西市の豊田佐吉記念館の見学などが午後に開催され夜は懇親会があった。

 挙げればきりがないがこれをやっているともう自分の研究どころではない。自分の専門分野だけは社内の研究者との打合せにもできるだけ参加し意見を言うようにしていた。ところがあまり偏った情報収集をしていると他分野の研究者からは自分の成果もきちんと聞いて欲しいという要望がでることになり、この対応をするためにより多くの時間を費やすことになってしまった。しかしこれで知識の幅が広がったことは言うまでもない。今まで研究室単位で進捗報告を行っていたが、これを誰でも聞くことができるようにしようという事で研究室ポスターセッションと言う制度を作った。毎週決まった曜日に開催するようにして、横のつながりを重視するようにした。

 2008年に役員として最初の年末を迎え、6部長さんと色々と議論をしている時に最後の出勤日に何かイベントをやりましょうという事になり意見を出し合った。そしてこの1年間で目立たないけどよく頑張った研究者を表彰することになった。各部長さんから1名ずつ推薦していただき皆さんの合意で1名に絞り私から表彰することにした。名前は私の希望を聞いてもらい「有光(ゆうこう)賞」になった。あまり光が当たってこなかった研究者に光を当てましょうという意味である。自腹で2-3万円のホテルのペア食事券を副賞として与えた。これは役員を終えるまでは続けた。最初の受賞者は金属や樹脂に塗装を見事にしてくれ塗料の耐久性をしっかりと評価できるようにしてくれた技術者に与えた。彼が居なかったら塗料の評価ができなかったからである。実は塗装をしているところをビデオで撮影して残すようにお願いしたが辞退された。それは「あなたがゴルフのプロのスウィングを見てみてゴルフがうまくなるわけはないので無駄です」と。そのとおりである!
表彰式の音楽はDREAMS COME TRUEの「何度でも」にした。私の好きなフレーズがあるからである。
【1万回ダメでへとへとになっても、1万1回目は何か変わるかもしれない。

1万回ダメで望み無くなっても、1万1回目は来る。明日がその1万1回目かもしれない。】本当は失恋の歌だと思うが、実験の心得だと感じている。
 皆さんに集まっていただいてこれだけでは時間がもったいないのでそれ以外の話としてこの一年で私が感銘を受けた論文を紹介することも行った。あまり覚えていないが、ScienceやNatureに載った論文が多かったように思う。
 式の最後にあくまでもついでのように来年の方針を述べるようにした。今までの各社の役員のやり方を聞いていると新年早々に集めて今年の方針を言ったりしていたが、年々出席者が減少しているとの情報も聞いていた。またこれはトヨタの役員に聞いたのだがあるへび(巳)年の年初にみんなで変わろうという意味を込めて、「脱皮―(ダッピー、ハッピーをもじり)ニューイヤー」と言ったら会場が静まり返ったという話も聞いていたので変えてみた。今振り返ると色々と試行錯誤の中でスタートしたことが思い出される。

Author: xs498889

2 thoughts on “20241006 17-3 役員の仕事(余談)

  1. メール拝見しています。昨日、兵庫県のSPring-8で対面で行われた理事長ファンド審査委員会から帰宅したところです。
    今回は特に貴重な体験談ですね。
      急に取締役昇任で大変だったと思います。また、豊田章一郎名誉会長の「どうして自分で会社を作ってやらないの?」は面白いですね。
    皆さんがそうしたらトヨタが分裂です。米国流なら愛社精神よりもベンチャー企業優先で行く事になるかと思いますが、どちらが良いかは難しいです。250名の研究員を束ねるのは大仕事と思います。ベル研究所は、実際は、固体エレクトロニクス研究所、化学研究所、材料研究所、物理化学研究所などとそれぞれ100名前後の研究所に分かれていました。研究員が多すぎると意思疎通が疎かになるからだそうです。彼らは、一匹狼が多くて、油断すると転職や起業してしまうからです。
    毎年10%は出入りしていました。
      私も東大教授の時、日本ゴム工業会で、「日本にも中立のゴム技術総合研究所が必要。」と訴えたのですが、工業会会長だった、
    ブリヂストンの石橋幹一郎会長がその場に居られて、「良い話だから創設したら。」と言われました。実際にそれならと言うことで設立候補地の調査や研究員数、予算などの検討までして、とりあえず150名ぐらいで当面150億円ぐらいは要るかなと詰めたところで、石橋会長が急逝されてその話は、潰れてしまいました。候補地の市長とは、一緒に温泉に入る付き合いまでしたのですが、石橋会長急逝後にその市長が落選して更に逆風になってしまいました。石橋家は遺産相続に莫大な相続税を払ったようなので、もしゴム技術総合研究所に寄附していれば随分節税になったのでは
    無いかと思っています。
    米国流なら「石橋記念ゴム技術総合研究所」です。当時は、住友ゴムの社長、会長を務められた横瀬さんが大賛成、横浜ゴム社長も賛成でしたので
    あと一歩の所でした。今は、日本のタイヤ各社は、ミシュラン、グッドイヤー、ハンコク(韓国)、アポロ(インド)、中国タイヤメーカーなどとの競争が激しくて
    余裕が無くなってしまいました。タイミングが大事ですね。
      SPring-8の豊田ビームライン設置は素晴らしいですね。同じ頃、ポリマー関係では、フロンティア・ソフトマター・ビームライン(FSBL)が、2009年から産学連携で
    動き始めました。私は、2010年ぐらいから学術諮問委員を依頼され今でも頑張っています。梶山、安部、土井先生もメンバーです。
    詳細は、ネッでFSBLと入れれば出てきます。企業からは、ブリヂストン、住友ゴム、横浜ゴム、東レ、帝人、住友化学、三井化学、旭化成など、
    大学は、東大、京大、東京科学大などが参加しています。特にFSBL成果紹介が面白いです。最近は、その場観察、工程解析、新機能付与などに有効です。
      頭書に書いた理事長ファンドと言うのは、JASRIの方でSPring-8を高度化し、産学が利用しやすいような萌芽研究を奨める制度です。放射光を単なる構造解析だけでなく、
    ダイナミクスや、その場観察、大気圧に近い状態での解析、高圧下での解析、反応解析、自動化、AI活用、などに使えるようにする提案を審査して奨励しています。
      最後のお話で臼杵さんが高分子学会会長になれなかったのはとても残念に思っています。高分子は、実学ですので企業からの会長が出て不思議はないのですが、大学関連
    の票が多いので簡単ではなかったと思っています。私は、勿論臼杵さんに投票したのですが。高分子学会も改革が必要です。
    西 敏夫

  2. メール拝見しています。第17-3報のコメントは、何故か第17-2報の第3コメントに入ってしまいましたので、ここでは、
    追加コメントにしました。
    役員のお仕事は今までと違って大変だったと思います。私がベル研で客員研究員をしていた時(1972~1975年)にベル研の役員
    の振る舞いは、日本の場合と随分違っていて一種のカルチャーショックでした。例えば、
    1)化学研究所の所長だったDr. Slichter は、管理職ながら自分の研究室を持ち、自作のパルス法NMR装置で高圧下のポリマーの分子運動性などを
    研究していました。何故かと聞いたら、「海底ケーブルは1万メートルぐらい深い海の底に敷設する。そこでは、4度C、1000気圧が長時間続くので
    そういう状態での物性を調べる必要がある。」でした。
    2)彼は、娘から誕生日祝いに貰ったディズニーの腕時計を皆に見せたり、廊下ですれ違うと「ハイ、トシオ」とファーストネームで笑いながら挨拶してくれました。
    日本の企業ではあまり聞きませんね。また、会議などではジョークを飛ばすのが得意でした。日本人には中々理解できないので”Giant Book of Dirty Jokes”と言う本を買って勉強しました。
    帰国後東大の西研の学生に紹介したら、大好評でどこかに消えてなくなってしまいました。こうやって研究員とのコミュニケーションとか議論が出やすいムードを作っていたようです。
    また、彼はある会議中、物理化学研究室のDr. Douglass室長の車(ビュイック・リビエラ(1963~1979年、V8,7000CC))について「彼はもう10年以上も乗っているが、
    どうもCorrosionの実地実験をしているようだ。」と言っていました。ニュージャージー州は、冬は道路に塩を撒いて凍結防止をするので7年ぐらいたつとボロボロになり車を買い換えるのが普通です。
    10年も経つと、運転席の床から道路が見えたり、マフラーが腐食して運転中に落下したりするのが普通です。車検は手ぬるかったです。
    3)ベル研全体の副社長の車は、真っ赤なフェアレディZでした。有名な固体化学者(Hannay)で、教科書も書いています。美人秘書の車は、マスタングでした。乗っている車からは持ち主が想像できない
    ところが面白かったですね。因みに高分子成形加工グループ長の松岡博士は、フルサイズのメルセデス・ベンツでした。
    西 敏夫

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