2025年2月号の「現代科学」(東京化学同人出版)p.76に“Anthony T. Tu先生逝く”が掲載された。最近はTu(Anthony T. Tu、杜 祖健、と そけん)先生とまったく連絡をとってなくて衝撃のニュースであった。実は私は学生時代から存じ上げており、コロラド州のご自宅を訪問したこともある。そんなご縁からか先生の出版された書籍「Tuさんの実践英語教室」(1989年6月化学同人発行)に私が友人として登場している。
p.92-95器具の呼び方(続)から引用:日本からの訪問客だ。豊田中央研究所に居る友人の臼杵有光君が訪ねてきた。いろいろと話がはずむが、最後には英語のむずかしさについての話になる。
小林君:ピンセットのことを英語で何と呼ぶか知っているかい。
臼杵君:forcepsでしょう。
小林君:そのとおり。さすが名大出身だけあるね。・・・・
などの会話が4ページにわたり書いてある。今読み返すと恥ずかしい限りである。
先生の名前を一躍有名にしたのは今から30年前にオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)であろう。サリンの検出方法を科学捜査研究所に伝え事件解決に多大な貢献をされたのである。それで2009年には旭日中褒章を受章されている。また2014年には「サリン事件-科学者の目でテロの真相にせまる-」(東京化学同人発行)を出版されている。
まったく別に個人的な興味から「警視庁科学捜査官」(服藤恵三著、2021年文藝春秋発行)を読んだことがあり、服藤(Dr. HARAFUJI keizou)さんの想いに感銘したことも思い出した。彼は(面識は無いのだが)科学捜査研究所の方でサリン事件解決の立役者である。サリン事件の主犯格でサリンを合成した土谷正美(2018年死刑執行)と面談し自供をさせた方である。製薬会社から転職してあこがれの科捜研に入ったのだが、先輩から言われた言葉が、(p.58 本文のまま)「服藤君、捜査員は鑑定がいつ頃出来るかよく聞くんだわ。いいか、一日で出来るものは三日かかると言えよ。三日で出来るものは一週間かかるって言うんだぞ」である。愕然とされたようである。私が寄稿文34で書いた“アリバイ研究”そのものである。彼はもう一度転職しようと考え東邦大学の医学部で博士号を取得されるのであるがそんな頃に発生したのがサリン事件である。本には書かれてはないがたぶんTu先生とも何らかのやり取りをされているかもしれない。
妙な親近感を覚えるが昔の研究機関にはどこものんびりとした緊迫感のない雰囲気があったのかもしれない。与えられた仕事を着実に成し遂げるのは技術者、研究者としては当然の使命であるが自らその道筋を求め追及していく心構えが重要である。私も研究者時代にはいろいろな仕事をして育てられたが、何も仕事が無い時期、あるいはあるけれどもやる気がない時期もあった。そのような際に先輩から言われたのは「何もやることが無い時は刀が錆びないようにしておけ!」という言葉であった。要は自分の持つ知識や経験を蓄えておけという事と理解し、論文を読んだり様々な方と意見交換を行なったりした。学協会での活動はその一環として私の研究人生に大きな意味を持つものであった。
1 thought on “20250309. 37. コロラド州立大Tu名誉教授の訃報に接して思う事”
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メール拝見しています。興味あるエピソードをありがとうございます。
実験機器に関しては私も面白い経験があります。1972年にベル研究所に行ったとき、先ず簡単な実験を
したくなり、普段は葉巻をくわえている私よりずっと年配の助手に、「シャーレ、ピンセット、フラスコを用意して欲しい。」と言いました。
ところが彼は目を白黒させ「何を言っているか分からない。」と答えました。ベル研はとんでもない助手を手配してくれたと呆れたのですが、
「ベル研の最上階には、ストックルームがあって実験器具ならその場で手に入る。スーパーマーケットみたいなものさ。」といってそこに連れて行ってくれました。
先ず「シャーレ」を取ると「何だペトリディシュか。」でした。シャーレはドイツ語で”schale”, ペトリディシュは英語で ”petri dish”だったのです。次にピンセットを
取ると「何だツイーザーか。」でした。ピンセット(pincet)はオランダ語で、英語では、”tweezers”だそうです。さらに「フラスコ」を取ると「何だフラスクか。」でした。
フラスコは、ポルトガル語で”frasco”ですが、英語では、”flask”でした。ベル研では、ピンセットに対して”forceps”は使っていませんでした。
年配の助手から見れば、日本から来た若くて生意気な研究者が、ドイツ語、オランダ語、ポルトガル語をごっちゃにして実験器具を要求するなど、奇妙な奴だと思ったに違いありません。
シャーレ、ピンセット、フラスコなどの用語は、日本の科学の初め頃は、蘭学、ドイツ留学などに影響されていた証でしょう。
又、地下鉄サリン事件は嫌な記憶です。丁度1995年3月20日(月)は、珍しく寝坊していつも使う丸ノ内線本郷三丁目の駅に着いたのが10時過ぎでした。何故か救急車や消防車が沢山居たので不思議に思ったのですが、大学に着いたところ物理工学科の事務主任が「先生無事で良かったですね。」と言ってくれました。あの日は、オウム真理教が、地下鉄の丸ノ内線、日比谷線、千代田線にサリンを仕掛けて無差別攻撃をかけました。本郷三丁目駅でも被害があったそうですが、私は寝坊したお陰で助かりました。後で聞くと高分子学会の職員の何名かは、
日比谷線築地駅で被害に逢ったそうです。更に3月30日(木)には國松警察庁長官銃撃事件が起きました。ニュースを見て國松という苗字は珍しいが、確か物工に国松が居たなと思って
事務主任に問い合わせたところ、彼は國松長官の息子だと言われビックリでした。お陰でその学生も狙われている可能性が高いので警察は、彼にシークレットサービスを付けたとのこと。
彼は、同じ講座の近くの実験室に居る別の指導教官の大学院生でしたのでサービスが付かない夜の実験が出来ないと嘆いていました。私は、運悪く1995年4月1日から1996年3月31日まで工学部物理工学科の学科長、大学院工学系研究科の物理工学専攻長にされてしまったのでオウム関連の余分な仕事に忙殺されました。オウム信者が居ないか、シンパがいないか、毒ガス製造に関連する化学物質がどのくらいあるか等などを密かに調べなければなりませんでした。特に化学薬品は調べ出すと危ないのが結構出てきてその管理方法検討など大変でした。大体隣の研究室は、化合物半導体を研究していてアルシンという猛毒ガスを扱っていました。その実験室では小鳥を飼っていて「優雅だな。」と思っていたのですが、実は毒ガス検知用でした。
世の中結構身近にとんでもないことが起きる物ですね。これからも気を付けねばいけません。
西 敏夫