私はある時期(2016年4月-2023年3月)、京都大学の生存圏研究所に所属しセルロースナノファイバー(CNF)を用いたクルマ作りを行っていた。勤務先(京都府宇治市)に行くためにJR奈良線に乗り黄檗(おうばく)駅から歩くのであるが今回書くのはJR奈良線に乗車時の妄想である。
電車内のつり革広告に「ナラティブな旅を」というメッセージを見つけた。私は英語力の無さからてっきり「奈良ティブな旅」だと勘違いし、奈良方面の旅行案内だと考えて広告を見たがどうも違うようだと思われた。ナラティブ(narrative)とは「物語」や「話術」、「語り」といった意味で語り手自身が紡いでいく物語の事なのである。それで観光旅行の宣伝としてのキャッチコピーであり、自ら旅の物語を作ろうという意味のようだなと気が付いた。更に調べてみるとナラティブマーケティングという言葉もあり、ユーザーそれぞれが語る自身のストーリーにアプローチしたマーケティング手法のことを言うようである。それは研究にも当てはまるのではないかと思うようになり今回、表題を「ナラティブな研究」にした。
以前に東大の著名な先生に論文の書き方をお聞きした際に先生曰く“イントロダクション(緒言)は研究を行う前にすでに完成しており後は学生さんと一緒に実験を行って結果を埋めていく作業だ“と言われ驚いたことがあった。確かに先生の研究室からは多数の論文が発表されており素晴らしいのであるが学生さんの勉強になっているのか疑問だなと感じたからである。自分自身のやり方ではイントロダクションから記載しようとするとどうしても手がつかないので、既にわかっている実験パートから記載し、その次に図や表などを使って結果をまとめそれからイントロダクションを書いて最後に考察を書くような順番が多かったと思う。イントロダクションは実験の背景や論文の目的を記載する必要があるのでそこから記載するのが常套手段かもしれないが私の場合はどうも異なる手法で書いていた気がする。
大学の研究室ではイントロダクションから丁寧に入り、一貫して同系列の実験を追いながら論文を書いていくように思われる。企業研究時代を振り返ると、当然ながら将来も含めて商売として成り立つ方向性をひたすら求める為、初期段階の論文の目的すら視点が変わることもある。多くの研究実績とそれらの結果を誰がみても納得いただくようにまとめることが重要だ。実験と結果を有機的で意味のあるストーリーにまとめてナラティブな研究になるのではないかと考えた。
特に思うのは得られた結果が想定していた結果と異なる場合である。私の場合はそのケースが印象的で、興味深く、実際新たな発見に繋がった場合が多い。材料開発の場合は仮説を立てて実験を組んで始めるわけであるがなかなか思いどおりに行かない。逆にそれが実験の醍醐味でもあるので、どうも結果をみてから目的を考える習慣になってしまうようである。たとえばポリマーに可塑剤を添加して衝撃強度の改良を目指した実験を行ったが得られた結果は形状記憶材料であったり(寄稿文19)、比較例のつもりでゴムに粘土を添加する実験を行ったが得られた結果は新規なゴムクレイハイブリッドの方法になったり(寄稿文10)などである。新しい発見があると過去に同じようなことをやっていた人がいるかどうかを調べなおした上でイントロダクションから新しいナラティブを生み出すわけである。
論文の場合は事実だけを正確に記載していく作業であるためあまり感想や意見を述べることはない。個人的にはこの材料は将来こんな使い方があるとか、今までの材料の代替になるとか、新規にこんな製品が考えられるなどの想いが重要だと考えている。しかし多方面の方が見る論文ではあまり好まれない。会社の研究においては、特許が重要でありそれがビジネスに関係するものであるため、この材料の産業上の利用可能性についてビジネスの範囲を決めて詳細を記載する必要がある。私の場合、論文は事実の記載、特許はビジネスの範囲の記載と明確に分けて書くようにしていた。そのため特許では論文と異なりいくら儲かるのかといった商売の感覚が重要であろう。儲かるとは表現としてはつたないかもしれないが、対価を得るものであるという主張がその研究の可否に匹敵すると考える。
1 thought on “20250323. 39.ナラティブな研究”
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メール拝見しています。「ナラティブな研究」とは面白い概念ですね。
その前に「黄檗駅」で思い出したのですが、私もフロンティアソフトマタービームライン(FSBL)の学術諮問委員を長らくやっているため、京大化研で
よく会議があり、奈良線の黄檗駅を使います。あるとき時間が出来たので駅近くの黄檗宗大本山万福寺を見学に行きました。このお寺は、禅宗ですが、中国の明朝様式で建てられたユニークなお寺で有名です。特に本堂に該当する「大雄宝殿」には、大きな額が飾ってありそこに「真空」とあったのでビックリしました。禅の極意なのでしょう。先ほどネットで調べたら
その文字は、明治天皇宸筆だそうです。あの時代には今で言う「真空」とは違う意味があったのかも知れませんが、面白いですね。同じようにショックだったのは、北京の故宮の中で
最も重要な皇帝が日常の執務を行っていた乾清宮に大きな額があり、そこには「無為」と書かれていました。これは、清朝の支配領域を最大にした乾隆帝の宸筆だそうです。
私は、「もうやることはやってしまったのでもう良いか!」の意味に取ったのですが、本当の意味は、「自然のままに」だそうです。現代の中国も「中国の夢」に酔いしれるより、「無為」
で行ってくれれば世界中が助かるのですが。
本題に戻ると、私も臼杵先生のご意見に賛成で「イントロダクション」から研究を始めるのには抵抗があります。やはり、現場や現実が大事で実験結果に基づいて「イントロダクション」
を書いた方が自然と思います。特に「得られた結果が想定していた結果と異なる。」時がチャンスです。昔、ベル研で客員研究員をしていた時、ポリマーブレンドの相溶性についていろいろ
実験して面白い結果が出たのでそれを纏めて上司(スーパーバイザー)に渡しました。そうしたら何と彼はそれに「イントロダクション」を付けて彼の名前を筆頭にして論文投稿してしまいました。その後は、必ず自分でイントロダクションを書いて、名前の順番も決めて原稿を提出するように改めました。まあ日本流とアメリカ流の違いかも知れませんが。
現場を抜きにして「イントロダクション」に拘るととんでもない結果になる事は肝に銘じた方が良いと思います。これは我々の材料研究分野でも大事ですが、もっと大きな政治分野では
悲劇の原因になるようです。トランプの「アメリカを再び偉大に”Make America Great Again(MAGA)”」とか、プーチンの「ロシア帝国復活?」などもそれを基にした大国の筋書きや
彼らの頭の中にある「イントロダクション」に拘った結果、現場での人権蹂躙、虐殺などになってしまうのでしょう。現場や現実を顧みない主義や思想は悲劇の元です。
西 敏夫