20250419. 43.研究をさせていただくとは

(これは2022年プラスチックスエージの4月号p.7フォーラムに寄稿した文章のままです。再掲載になります。)
企業での研究者から大学に職場が変わり早、5年目を迎えている。大学では色々な研究をさせていただいている(ん?)・・・・。
このように書き始めて研究の具体的内容を書こうと考えていたが急に考えを改めた。会社員時代に「研究をさせていただく」と感じたことはなく、「(納期までに)研究をしなければならない」「(企業利益のため)研究をする必要がある」と考えて行っていたからである。今から振り返ると自分のため、組織(上司?)のため、会社のために必然だと思って行っていた。大学に職場がかわりどういう変化であろうか。

「させていただく」との言葉には、許可を得て実施していることと、そこから恩恵を被っているとの思いがあろう。最近のマスコミのインタビュー等を拝見すると、やたらと「させていただきます」を使うように感じるが、例えば反省させていただきますと言った使い方は違和感があろう。私がその言葉を使ったのは、大学で仕事をすると研究費用が国のお金で補填されているためにどうしても国の許可を得て実施して、その成果で自分が恩恵を被るという思いになっているのであろう。これで良いだろうか。
たぶん良くない。それでは本当に社会に役に立つ研究ができているかがはっきりしないためである。まずは目的意識を明確に持つことである。何のためにこの研究を実施するのか、明確に答えられるようにしてほしい。論文を書くためでも良いかもしれないが、人に読まれるためのものでありたいし、人の役に立つものであってほしい。
次に社会ニーズをきちんと先取りしてテーマを選ぶことである。社会ニーズを先取りすることは至難の業であるが、それを間違えると役に立たない研究になってしまう。それはまずは個人レベルで必要と考えるあらゆるニーズを拾い出し、次にはそれらを集めて組織単位、企業単位で精査することである。しかしながらそれではまだ不十分であり、それが社会に受け入れられるニーズかどうかの判断が必要になる。最近では地球温暖化対策でカーボンニュートラルのためにバイオプラスチックの利用促進、海洋プラスチックごみ削減のためにリサイクルの促進や分解性の制御などといった国策に関する研究が多く行われている。私自身もバイオプラスチックやセルロースナノファイバー(CNF)の研究現場に所属しているが、国策に関するものであるし、環境省の国プロであるためどうしても「研究をさせていただく」という言い回しになってしまうのであろう。
最後にその研究を主体的に行うことが挙げられる。自分でよく考え、研究という限りは結果を予想し仮説を立ててその検証にあたるべきである。その仮説から外れた結果が出て、かつそれが誰も見つけていない結果であればそれが発見である。この時に大切なことはその結果を自分の言葉で主体的に説明することである。一般的な知識とかけ離れていればそれは大発見である。この見極めが重要である。
多くの研究があるのに社会実装ができる例は数少ない。これは研究の大きなハードルであるがコストであろう。目的意識があり、社会ニーズがあり、主体的に行った研究でもやはり社会に受け入れられるプライスがある。基礎研究の段階では気にすることは無いかもしれないが、応用研究や製品化研究になるとコスト意識を持ったうえでの取り組みが必須である。特に自動車関連ではその傾向が強いのではなかろうか。数万点を超えるパーツから構成されるため、一個一個のコスト削減は必須である。しかしながら材料の構成要素を見ると、例えば排ガス浄化触媒には白金などの貴金属が使用されている。つまりオンリーワンの材料であれば高価なものでも使用されるわけである。
これからの時代は環境がビジネスになると言われている。地球環境を意識した材料開発、プロセス開発、製品開発が主流になろう。若い研究者の方々には研究に対して、決して受け身ではなく、私がその道を開拓してやるという意識を持ち「研究をさせていただく」という意識は捨てた方が良いと思う。ただしあまり暴走しないでね。
京都大学 臼杵有光

Author: xs498889

1 thought on “20250419. 43.研究をさせていただくとは

  1. メール拝見しています。東京も今の時期にしては暖かいです。最近は、冬から夏に一足飛びで春や秋の期間が短くなったような気がします。
    気候変動で大陸性気候に変化しつつあるようです。因みに、北京の気温はほぼ東京と同じですし、アメリカのニュージャージー州の気温は、
    東京より数度低いだけです。北京の夏は、東京よりも暑いです。
     本題に戻って「研究をさせていただく」と言う言葉には大学に長く在籍した経験からでは、確かに違和感があります。企業に居たときは、臼杵先生が言われるように会社のために
    必要な研究なので違和感は無かったです。企業では、異動により研究で無くて、開発、企画、特許部門、工場、海外駐在など、場合に依れば販売、トラブルシューティングまで何をやることになるか分かりません。そのため研究が仕事になったときは、「研究をさせていただく」でした。特に基礎研究に関しては、幹部が漏らした、「基礎研究費は宣伝費と同じようなもんだ。」という言葉が忘れられません。最近、トランプ政権がアメリカの科学研究費を大幅削減して研究者の首切りを大量に行っているのは、そう言う考えに依る行為でしょう。まあ、長い目で見ればアメリカの科学技術大国没落に繋がるでしょう。
     大学人としては、主体的、能動的に「研究をする」のは当たり前の感覚です。但し、科研費の大型プロジェクトや、国プロでは、目標や納期が決められてしまうので相当の予算を貰って
    居る場合は、「研究させていただく」感じになってしまうことがしばしばです。本来の研究とは、ベル研基礎研究部門のモットーだった「Research is the effort of the mind to comprehend
    relationships which no one has previously known.」が正論だと思っています。また立場を変えて大型プロジェクトや国プロを立ち上げる側では、これからの社会ニーズ、環境、カーボンニュートラルなどに沿った研究を考えねばなりません。その際にどう言う提案書を書き上げるかが大事です。以前、文科省の特定研究領域「強相関ソフトマテリアルの動的制御」を立ち上げる申請書を作成する際、九大の梶山先生、東工大の相沢先生らから「この申請書は通れば1ページ当たり数千万円の原稿料に化けるが、落ちればただのゴミだ!」と言われたのが忘れられません。但し、申請書が通って大きな予算がつくとそれらを各班、各研究メンバーなどに割り当て、研究会、国際会議、成果評価その他で超多忙になってしまい、自分の研究が吹っ飛んでしまい、貴重な経験でしたが、「本来の研究がしたい」と思ったことが何度もありました。やはり一番良いのは、「自分の研究が自由に予算や時間の制約が無くて可能」なのですが、なかなかそうは行かない物です。白川先生等は、「今のようなプロジェクト中心の予算配分で無く、昔のように多くなくて良いから自由な研究費配分が望ましい。」と言われて居ます。この方が独創的な研究が育つでしょう。以前は、科研費の審査も相当量しましたが、随分整備された申請書が年年増えてきて、ここまで書けるなら研究しなくても良いかと思う例が多くて参っていました。やはり研究は、「分からないからやる。面白いからやる。誰もやっていないからやってみたい。ーー」が基本でしょう。
     一方大学の重要な役割として、教育があり、研究と同様に重要ですが、最近はやや軽視されている感じがします。それは、専門分野の良い教科書が減ってきたのが証拠です。実際問題として、教科書を書くのは普通の論文を書くよりも大変です。まして、論文と教科書を両方書くのは結構しんどいです。分担執筆で教科書的な本を作るのは容易ですが、読む側から見ると
    どうしてもちぐはぐで満足出来ません。最も教科書を生成AIに書いて貰う手がありそうですが。
    西 敏夫

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