2024/04 人生初の論文 -アダマンタンとの出会い-

人生初の論文 -アダマンタンとの出会い-
 研究者生活のスタートは名古屋大学工学部合成化学科の4年生に遡る。4年生になる時に希望講座を選択するのであるが、私は工業や産業に興味があり、かつ有機化学が志望であったため迷わず「工業有機化学講座」を選択した。研究室は4部屋の実験室を持ち、NMR、IRや元素分析など多種の装置を保有していた。佐々木正教授は薬学出身の先生であり有機合成を専門とされていた。そこで初めて出会った化合物がアダマンタン(C10H10)である。これはダイヤモンドの基本骨格を持ち、とても頑丈な骨格であるため化学モデルを作製して踏んづけても壊れないようなものであった。薬としても使用されている化合物であり当時はとても高価な化合物であったと記憶している。それが研究室には山のように保管されており、メンバーでその誘導体作りを行っていた。朝から晩まで実験三昧で、実験台の上に反応を仕掛けたフラスコが3つ以上回っていないと怒られた。特に学会発表前は土日なく(今ではできないだろうけど)実験し、データを集めるのが大変だったという思い出がある。
 しかし自分でやらなければ誰も助けてくれないし、困るのは自分であることと、必死でやれば何とかなることをこの時期に学んだことは私の人生にとって大きな意味がある。また実験だけではなくスポーツも盛んで昼休みと夕方は一時間以上、運動を行った。野球、バレー、サッカー、テニス、マラソンなど先輩に引っ張られてこれも必死で行った。
 当時は土曜日の午後から、全員で興味ある論文を読んで報告する雑誌会が行われた。研究室の性格上、天然有機化合物の全合成の論文や新規な化合物の合成、新しい有機合成反応の発見などの論文が多かったような気がする。その中で私には高歪み有機化合物の話はとても興味があり、なぜか会社に入ってからも頭の片隅に残っていた。この材料の展開に関しては次回以降で述べたいと思う。
 学生時代に初めて論文というものに触れたのは以下に示す2報1)2)である。当時、パソコンは無くIBMのタイプライターで一文字ずつタイプした。誤りは白インクを塗ってその上からタイプをし直すという形式である。ほとんど先生が作成したが実験のパートだけは記載したと記憶している。それでも掲載された際は自分の名前が英文で出ていることに大いに興奮した。これが研究者としてのスタートである。
・参考論文
T. Sasaki, A. Usuki, M. Ohno, Tetrahedron Lett., 4925 (1978)
Synthesis of Bridgehead Substituted Adamantane Derivatives Using a Reagent Having a Trimethylsilyl group

T. Sasaki, A. Usuki, M. Ohno, J. Org. Chem., 45, 3559 (1980)
Synthesis of Adamantane Derivatives. 49. Substitution Reaction of 1-Adamantyl Chloride with Some Trimethylsilylated Unsaturated Compunds

Author: xs498889

1 thought on “2024/04 人生初の論文 -アダマンタンとの出会い-

  1. 学生時代の話は懐かしいですね。私の場合は、東大工学部物理工学科だったので臼杵さんの化学系とは大分雰囲気が違いました。研究室配属は4年からで、当時の1964頃、物理工学科では、半導体、レーザー、鉄鋼材料物性などが人気でした。私は当時としては新分野の高分子物性をやっていた和田八三久教授の研究室を選びました。2名が定員でしたが、最後はジャンケンで決まりました。相棒は、早川禮之助(1942~2019)さんで、確か番町小学校、麹町中学、日比谷高校、東大という超エリートコースの秀才でした。卒論テーマは、国産化されたばかりのポリアクリロニトリル(PAN)の誘電分散の研究でした。試料は、和田研卒で東洋紡で活躍していた有沢さんから頂いた物でした。PANをDMFに溶かして溶液を水銀上で成膜し、DMFを完全に蒸発させ綺麗な薄膜に仕上げるのが大変でした。まともな薄膜が出来るまで半年はかかったと思います。物理工学科は新設されて同期は22名、初年度の学生は14名でしたのでサボれば直ぐ分かってしまう間柄でした。和田研の実験室も出来たばかりでしたが我々には、東大正門を入って直ぐ左にあった列品館というレンガ造りの歴史的な建物の地下室が与えられました。早川君と一緒に見に行ったら、ガラクタ置き場だったようで汚れ放題でした。実験室に使えるようにするのに二人で1週間ぐらい掃除した覚えがあります。
    誘電分散と言っても安藤電気製のブリッヂをグルグル回して、複素誘電率を広い周波数範囲で測定し、更に温度を低温から高温まで変化させるので大仕事でした。実験は夜中まで掛かり、正門は夜10時に閉まるのでそれ以降は、鉄格子を乗り越えての帰宅が何遍もありました。守衛に見つかると危ないので真剣勝負です。私が主に実験、早川君は主に解析で結局PANの準結晶分散を見つけ論文(J. Polymer Sci., A-2,
    5,165(1967))になりました。その後、早川君は、誘電分散の測定の煩雑さを改良するために「多周波同時測定」を開発したようです。PANの薄膜は高温測定後、赤くなりますが、本当はその先まで調べれば、導電性や炭素化(炭素繊維に関連)が分かり面白かった筈ですが、そこまでは卒論1年間では、時間的に無理な話でした。
    和田先生は理学部物理学科卒の温厚な先生でしたが、厳しい面があり、先輩達が、研究室で将棋ばかりで暇つぶしをしていたらそれに先生が気づき、ある朝先輩達が研究室に入ったら真っ二つになった将棋盤が
    ゴミ箱に突っ込んであったとか、別の先輩がマンガ本を沢山机の上に置いていたら翌朝全て破られてゴミ箱が満杯になっていたとか聞きました。先輩達は、その後理研を経て北海道の千歳科学技術大学の学長になったり、クラレを経て高分子学会事務局長など務められました。
    また、論文を英語でタイプして持って行くと先生は、ハサミを持って現れ、ここは駄目、ここは入れ替えなどと言いながら原稿をズタズタにされたのにはビックリしました。それを張り替え、綺麗にタイプし直すのは一仕事でした。

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