最近のニュースでは給与所得として「103万円の壁」という言葉がよく報道されている。要は年収が103万円以下であれば所得税がかからないのでそれ以下に抑えようとすることである。それはさておき「壁」という言葉が独り歩きして何か超えられない障壁があるかの如く感じてしまう。私はその言葉を聞くと研究にも色々な壁が存在したが乗り越えられないものは無かったとつくづく思う。今回はその研究の壁について述べたい。
企業での研究開発は色々なステージがあり、私はそれぞれのステージを研究の初期段階から①探求型基礎研究、②目的型基礎研究、③応用研究、④実用化研究、⑤産業化研究と区分けして実行していた。それぞれのステージごとでふるいにかけられ次のステージに行くテーマが選ばれるものである(ステージゲート方式)。これが各ステージでの壁と言っても良いが、私はこれを壁だと感じたことは無く階段を着実に上がっていく(場合によっては下がっていく)ステップだと思っていた。階段であれば乗り越えるような障壁ではなく上がるか下がるかすれば良いわけなので前進していることが感じられるのである。
ここで各ステージの話であるが研究はまずは
①探求型基礎研究が最初である。これは個人の興味や疑問からスタートしこれらをまずは仮説を立てて検証していくステップである。自分の例で言うと寄稿文3で書いたナノコンポジットの研究の最初は水でよく膨潤する粘土(クレイ)が有機化合物でも膨潤するのか?という疑問である。有機溶媒(例えばトルエン)で膨潤することが分かってくると今度はモノマーでも膨潤したり、層間で重合したりできるのかという疑問である。それを検証しナイロン6のモノマーであるカプロラクタムでの膨潤と重合を確認できた。すると次は
②目的型基礎研究にステップアップしナイロン6と粘土のコンポジットの機械的物性を調べることになって低比重、高剛性、高耐熱性、高ガスバリア性の材料ができたことを実証できた。これは「魔の川」を超えたと言われるものである。
③応用研究ではこの材料の生産性向上(量産性)、高品質化、低コスト化、耐久性向上などの研究開発が必要となってくる。私の場合は自社のみでは困難であると判断し外部のメーカー(宇部興産)やそのユーザー(トヨタ自動車)との共同研究に移行した。2年間で共同研究は完了し、材料の完成度は向上した。次は
④実用化研究に移行するとこの材料の特徴を有効に活かした自動車部品としての用途を見つけそれに向けての部品評価を行った。生産性、信頼性が問題ないことを確認し実用化に踏み切ることができたのである。いわゆる「死の谷」超えである。最後に
⑤産業化研究ではこの材料を継続的に使用し利益が上がるようにすることになる。そのため学会発表や論文発表を行い、かつ応用の特許も多く獲得することによる広報活動を積極的に実施した。
この例はうまく研究の階段がステップアップした例ではあるが、中には途中でストップしてしまった例、階段を下りてしまう例はいくらでもある。多くの研究者は階段を降りることは拒み、なおかつ壁にぶち当たっても引き戻ることはあまり好まないが意外と全く異なる道(研究テーマ)に乗り換えることも重要であると考えている。
大学での仕事では研究テーマを変更することはかなりの決断が必要であろうが、会社では比較的容易に替えることができる。まったく新規なニーズからの新テーマに取り組むこと、過去に失敗したが新しいアイデアがあるもの、将来に備えて誰もやっていないことに果敢に取り組むことなど多くを経験した。そのたびに新しいメンバーと意見交換しながら楽しく研究を進めることに注力した。会社での研究開発は「できないものができた」、「わからないことがわかった」、この2点が最も期待されていることでありそれに向けて前進(壁でストップするのではなく、ステップアップ)できていればきっと何らかの事業の芽はできていくものと考えている。
メール拝見しています。研究のステップという概念はとても大事です。先生のナノコンポジットの話は、
とても旨くいった例だと思います。普通は中々旨く行きません。どこかでステップダウンが多いです。
以前、JSTの開発主監をしていた時は、資金援助に関して申請事案がどのステップにあるか、ステップアップには
どのくらいの予算が必要かなどで随分揉めました。又、研究・技術的難度を横軸にして、社会的インパクト、経済効果などを
縦軸にして表示して他の研究と比較などもしました。これは結構面白くて難しい割に経済効果が低い申請が多かったです。
大学ではオリジナリティ、難度最優先ですが、JSTでは、将来NEDOプロジェクトに発展しそうなテーマを援助するのが暗黙の了解でしたのでこういう整理も
必要でした。
研究テーマの選び方に関しては、物理工学科の大物教授(確か田中昭二先生)から、
・あるテーマについて3年間必死に研究すれば大体世界最先端に行ける。
・出来れば5年ごとにメインテーマを変えるのが良い。
と言われましたが中々難しいですね。
ソフトマターでノーベル物理学賞を取ったフランスのド・ジャン教授は、確か、
原子物理~磁性物理~液晶物理~高分子物理と専門を次々と変え、最後は、表面・界面・接着などで業績を挙げました。
まあ理論だから専門を変えるのは可能でしょうが、実験屋は中々そうは行きません。田中教授は、確か、
半導体実験から超伝導体実験に変えて丁度高温超伝導体ブームに乗って大物になり、一時は、大学院に「超伝導専攻」まで
作ってしまいました。しかし、高温超伝導体は論文にはなっても実用化が難しく、いつの間にか超伝導専攻も消えてしまったようです。
この辺の問題は随分難しいですね。
そう言えば、先日TSMCの決算発表を見て利益率が40%もあるのにビックリしました。どうなっているのでしょうね。ファッションのブランド物や
高級化粧品より高い利益率です。また、以前先生のエッセーで「謝罪会見」の練習の話があり、私は、三菱UFJ銀行の貸金庫事件での半沢頭取の謝罪会見
について書きましたが、その後「フジテレビ」問題で社長の会見が全く駄目で社長・会長辞任になってしまったようです。「謝罪会見」は、恐ろしい事が実感できました。
まあ、トランプ大統領のように強烈に居直ってしまえば問題解決なのでしょうが。
西 敏夫